福井忠雄さんを悼む[浅妻勲(S29卒)/岡村喬生(S29卒)/佐々木豊(S59卒)]

合唱団再興の先頭に立つ

浅妻勲(S 29卒)

福井さんと筆者= 2002年

7年に及ぶ闘病の末、逝ってしまった福井忠雄君を悼みます。
「東大病院でも治んないって。専門的には大脳皮質基底核変性症(パーキンソン症候群の一類)というものだそうだ」と淡々と僕に語ってくれたのは、もう随分前の事だった。
まだまだ外見的には全然元気で、言われなければ誰も気付かなかった。勿論、練習も皆勤。皆と共に歌い、旅行も、ステージ出演も変わらず行動していた。
病状は相乗的に悪化していき、平成25年のコバケン「水のいのち」のサントリーホールも、これが最後になるのを承知しつつステージに載った。立つ脚は動かなかったが、歌は歌えた。
誰に何と言われようと、常日頃から、ワセグリOBの稲門グリークラブを一つにまとめて輝かしい活動を続けようと考え、頑張り続けていた。シニア会を立ち上げたのも、老齢化部員を別皿に受けて、元気な稲門グリークラブへの若返りを願ってのことだった。
話を彼と僕との稀有な出会いに戻そう。
昭和24年、戦後の社会情勢は貧しく、大学受験生の環境も単調で質素なものだった。新制高校2年の中頃から、そろそろ大学受験の勉強を始めなくてはと、同級生数人で神田三崎町にあった日大図書館の閲覧室に集まり自習を始めた。そこに他校のグループもいて、毎日通って来る受験生達とちょっとした挨拶をするようになった。お互いに受験生同士の敵を意識しながら。その中に福井がいた。
いよいよ受験期となり、僕は早稲田の第一政経に願書を提出しに行った帰り、例の図書館に向かう都電に乗ったら「君も早稲田受験でしたか?」と声を掛けて来たのが福井だった。
早稲田へ入ってすぐ僕はグリークラブに入部した。政経の授業に出たら、なんと福井がいた。色々話し出して「部活はどうするんですか?」と聞かれたので「グリークラブにしました」と答えると、また驚いて「ほう、僕もです。高校から男声合唱をやってました。早稲田に入ったらグリークラブに入るつもりでいました」という。その後は、グリー活動全て何でも一緒だった。
彼は就活してビール会社にでも勤めようかと思っていた矢先、ご厳父の急逝により家業を継ぐことになった。僕も父の経営する会社に就職した。会社に勤め始めてからもよく福井の職場を訪ね、青い社会情勢批判を交わして楽しんでいた。
初期の稲門グリークラブの練習にもよく通った。働く環境が結構自由な時間がとれたせいもあってか、殆ど皆勤。練習に集まる人は2、3人という時が随分続いた。福井も来ない時は電話して呼び出した。練習不成立で、麻雀解散になる時が始終あった。
一時期、僕はグリーの活動に顔を出さなくなったが、定期演奏会とか何かの催事には福井から誘いがあって出掛けた。僕が怠けている間も福井は稲グリ活動に積極的であった。
稲門グリークラブを創設し、活動を継続させた先輩諸兄の努力、功績も大きいけれど、細りかけたこの合唱団を復活再興し、今の繁栄を取り戻すべく旗を振り続け、先頭に立って導いたのはやはり同期の福井忠雄であった事は間違いない。

多田武彦(作詩・八木重吉)の「雨」を歌って彼を送る。合掌
雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと
世のためにはたらいていよう
雨があがるように
しずかに死んでゆこう

全才能を発揮して旅立った

岡村喬生(S29卒)

ドレミを早大グリーに入って初めて習った僕は、中学時代から合唱に親しんだ福井、浅妻、志賀(信)など、グリーに入るためにワセダへ入ったというような奴らと比べ、五線譜に書かれたオタマジャクシに大いに面食らったものだった。
僕は皆のお荷物だったが、そんなクレームはどこへやら。僕は楽譜視唱に夢中になり果てていった。
オレは楽譜が読める!ワセダに入った甲斐があった! 経済学原論などはページも開かず、机上の邪魔物! なぜか楽譜だけは開ける所にあり、外出時はいつもカバンに入っていた。
僕の成績は散々、福井たちは皆優秀。でも僕は満足至極! かくして僕の人生の主目的はオペラと決めた。
我が青春の潮を沸かした男声合唱! 生まれつき声が大きいのと相まって、大きな態度で僕はワセダの中を闊歩した。世間を知らない青年は蔑みの視線を慢心に浴び、益々大きな態度で歌い巡った。知らない、とはこわいことです!
福井よ! お前は一族への愛に、その持ち前の全才能を如何なく発揮。奥様共々その実力を如何なく発揮し、あの世に旅立った!その全力発揮の最後の闘いに心から敬意を表す。

忘れられぬひと筋の涙

佐々木豊(S59卒)

昨年12月17日の夕方、日本点字図書館チャリティーコンサートの本番を翌日に控えた練習が昌平童夢館で行われた際、療養中の福井忠雄さんは節子夫人に車椅子を押されて、参加メンバーの激励に来られました。
大好きな「水のいのち」を皆と一緒に歌えない無念さからか、福井さんの頬を伝ったひと筋の涙が忘れられません。私を含む多くのメンバーにとって、この時が福井さんとの最後のお別れになりました。
現役時代に部長だった私は時々、同期のOB担当マネ・杉野耕一君と連れ立って、OBの練習や福井邸での幹事会にお邪魔しました。福井さんは50代前半だったはずです。
その後2度にわたりOB会長を務められ、在任中に台湾や旧ソ連への演奏旅行も実現しました。再登板はOB会の体制刷新の時で、複数の関連合唱団が並立し、これらがそれぞれ独自に活動し、OB四連・OB六連などOB会全体として臨む行事の時にのみ「稲門グリークラブ」が登場するという現在のスタイルが始まりました。福井さんは、「普段は別々でもOB会はいつもひとつ」ということを誰よりも強く願っていたように思います。合掌

 

福井忠雄さん