多田武彦先生が逝去

多田武彦先生

男声合唱組曲「雨」「北斗の海」など700を超す合唱曲を手がけた作曲家の多田武彦先生が2017年12月12日、逝去されました。87歳でした。ご冥福をお祈りいたします。
多田先生は京都大学男声合唱団の指揮者として活躍。卒業後も銀行に勤務しながら作曲活動を続けました。ワセグリのために1960年に初の委嘱作品「北国」、68年に「北斗の海」(77年に改訂版)を作曲、講師としてクラブ活動に参加していただいたこともあります。97年のOB四連では稲門グリークラブの「北斗の海」を自ら指揮。08年のワセグリ100周年記念演奏会でも「帆船の子」を作曲してくださいました。

初の委嘱「北国」~47年ぶりに再演心に生き続ける

長澤護(S36卒)

 1960年、グリーは初めて多田さんに男声合唱組曲を委嘱した。多田さんは関西の大学にはないワセグリの粗野な力と音色に関心を持たれていたようで、快諾されて、組曲「北国」が誕生した。以来、お付き合いが続いてきた。
2007年、47年ぶりに「北国」を演奏することになり、もう1曲「白い自由画」を追加していただいた。異例のことで嬉しくもあり恐縮している。これを契機に「北国改訂版」「北国Ⅱ」の出版となった。
作品は男声合唱組曲だけでも90を超え、まさに大作曲家であるが、そんな素振りは微塵もない。日曜日以外は銀行マンとして仕事に徹することを貫かれたのだろう。音楽以外にも興味を示された。ゼネコンに勤めていた私に超高層ビルの構造、耐震・制震技術を熱心に質問されたりした。
京都大学で学指揮であった故か、合唱のメソッドを熱心に語られた。ウィーンフィルの音色、ピッチ、歌舞伎役者の声の飛ばし方など例を挙げていた。
外出を控えられるようになっても、多田さんの情報収集チャネルは多岐にわたった。ワセグリの現役・OBの演奏会の後は電話で延々と感想を述べられた。山脇(卓也)君はなかなかいいじゃないか、「四つの仕事唄」の佐藤(拓)君はどうしてる?……。ありがたいことです。
多田さんが亡くなられて本当に淋しい。しかし我々の心の中に多田さんの「うた」は永遠に生きている。

 

「北斗の海」委嘱~講師として在籍 アカシアの径も

土屋信吾(S44卒)

 1968年の送別演奏会で、前年の東京六連で明治大学グリークラブにより初演された男声合唱組曲「雨」を現役ステージで演奏した後、多田先生より連絡をいただき、勤務先だった東京・大手町の豊年製油に訪問させていただきました。先生より、早大グリーのために新曲(のちの「北斗の海」)を書いてくださるという望外の提案をいただき、感激したことを覚えています。
同時に、先生が研究されていたフルトヴェングラーなどの名指揮者の演奏を解析した〝テキスト〟の研究のため、「レクチャラー」(講師)として1年間、グリークラブの活動に携わっていただきました。
そんな折、「夏の演奏旅行用に、やさしく、軽快な曲を」との雑談をきっかけに作っていただいたのが、「アカシアの径」を含むグリークラブのための「ポピュラーソング・アルバム」全5曲です。
数多くの作品が時代を超えて歌い続けられ、感動を呼び起こし続けているという事実は「作曲家多田武彦」の存在の証でありましょう。先生、ありがとうございました。どうぞ安らかにお休みください。

 


97年OB四連で指揮~メンバーを洗脳 前代未聞の演奏

徳田浩(S31卒)

 多田武彦さんの訃報を聞いて真っ先に脳裏をよぎったのは、1997年の第11回OB四連だ。早稲田が幹事だった年の四連で、一発でかい事をやろうという雰囲気が高まっていた。「ワセグリのために作曲された『北斗の海』を多田さん自身に振ってもらおうじゃないか」。四連担当マネの清水實君と演奏企画チーフの安斎眞治君が交渉した。銀座の鰻屋で食事し、マキシムでコーヒーを飲みながら快諾されたという。
第1回練習で、多田さんは練習前にレクチャーを30分近く続け、100名近いメンバーは多田ワールドに引き込まれた。なぜ早稲田のために「北斗の海」を作ったか、早稲田の声で存分に歌って欲しい、細かいことは求めない……。5回の練習を通じて〝多田節〟に洗脳され、合唱の奥深さと楽しさを知ることが出来たのは大きな収穫だった。作曲者が楽譜と違う歌い方を求めるケースもあった。
特筆すべきは終曲の「エリモ岬」。「最後の『連なる』は『る』の前にブレスして、早稲田のffを存分に響かせてください」。本番は文字通り、前代未聞の「北斗の海」になった。
後日、筆者宛に長文の感想を頂いた。「名門稲門グリークラブの永遠の若さと漲る気力に支えられて、骨太の『北斗の海』を演奏できたことを深く感謝したい」。文中には、今後の稲グリへの期待と温かいアドバイスも含まれていた。