【素晴らしき童謡の世界③】「赤い靴の真実」~女の子 異国に行かず早世

  山本 健二(S31卒、声楽家)

 

赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられて 行っちゃった  

野口雨情作詞、本居長世作曲の「赤い靴」は、童謡の中でも最も親しまれている曲のひとつだろう。

 歌のモデルとされる女の子の名前は岩崎きみ。1歳だった1903年、母親かよと静岡県から北海道・函館に渡った。かよは農民運動家の鈴木志郎と結婚して真狩村(現在の留寿都村)に入植する際、病弱なきみを米国人宣教師に預けた。

 開拓生活は挫折し、志郎が札幌の新聞社に勤めていた時に雨情と知り合う。夫妻からきみの話を聞いた雨情は十数年後の21年、それを基に「赤い靴」を作詞した。かよは、きみが渡米したと信じたまま、生涯を終えたという。

 

 

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しかし、きみは異国には行っていなかった。6歳の時、宣教師は米国に帰国したが、結核を患っていたきみは渡航することも親元に帰ることもできず、東京・麻布の永坂孤女院に預けられ、1911年にわずか9歳で命を終えた。

 89年、きみが早世した麻布十番の商店街の広場「パティオ十番」に、「きみちゃん」像が建てられた。当時、商店街振興組合の広報部長だった山本仁寿さん(77、明治大学グリークラブOB)が、会報で赤い靴の物語を紹介したところ、大きな反響を呼び、「親子が一緒に暮らす幸せのシンボルにしたい」と、地域が動いた。

 像が建ったその日の夕方、像の足元に18円が置かれていた。山本さんが募金箱を据え付けると、善意の募金が絶え間なく続き、これまで累計で約1300万円にのぼる。毎年、国連児童基金(ユニセフ)などに寄付している。

今も多くの人が訪れる東京・麻布十番の「きみちゃん像」

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像は多くの人間模様も生み出した。毎年、チャリティーコンサートが開かれ、像に冬にはマフラー、夏には麦わら帽子がかけられた。各地からゆかりの人たちの手紙、訪問が相次ぎ、新たな交流が生まれた。

 今では麻布十番のほか、横浜、静岡、留寿都、小樽、函館、青森・鰺ヶ沢町など全国のゆかりの地に少女像が建てられ、人の縁、親子の絆の大切さを伝えている。  山本さんは「きみちゃんは多くの人たちとのつながりをつくってくれた。これからも、皆の心の中に生き続けていくだろう」と目を細める。