【岡村喬生さんの思い出】才能育んだワセグリの仲間

浅妻 勲(S29卒
昭和25年4月、早稲田大学グリークラブの新入部員歓迎会が大隈庭園内の旧学生食堂で行われるというので参加したら、そこに顔がデカくて態度もデカそうな新入りピカピカ1年生の岡村喬生がいた。同じ第一政治経済学部新聞学科の志賀信に付いて来た、という。

同期岡村とはその時から付き合いが始まった。勿論最初の頃はお互いに何もわからずで、彼は同学科の志賀と何時も一緒だった。聞くところによると、グリークラブへの入部も、ドレミファの楽譜読みも、みな志賀から教わったという。
あの当時の破天荒で腕白そうな彼の人となりは(だからこそ大成し名を遂げたのだが)グリー入部当初から随所に表れていた。

昭和28年、グリー同期と(中央が岡村さん、左隣が筆者)

例えば1年夏の初合宿で新入生と上級部員との親睦を込めて野球の試合をやることになった時、新入生はお互いに誰も判らず、ピッチャーの選出に困った。岡村はすかさず「俺がやる!」と出た。皆わからないから黙認、試合が始まると、まず球がキャッチャーまで届かない。たまに届くと全てホームラン!新1年生組は先輩チームに完敗した。こんな調子!

昭和28年の夏合宿でバリトンパートと(前列中央が岡村さん)

でも、入部して間もないのに、バカデカい声でベースパートの最前列で歌い出した。ある時、指揮者の磯部俶さんは「彼の声は大き過ぎるのでこの合唱団では不釣合い。列の後ろに下げてくれ」とパートリーダーに指示していた。
在学中から東京放送合唱団に入団、イタリアオペラ訪日時に日本人唯一人のスタッフに選ばれ、文部省からイタリアスカラシップの推薦を受けてローマ留学等々、華やかな道に踏み出し始めることになる。
でも、その前に彼は一時、今後の生き方として大企業の社員とか、新聞等のジャーナリストも希望していたこともあった。
実は、筆者とともに日本航空の社員募集に応募し、入社試験会場の東京芝の慈恵医大講堂に赴いたことがある。お互いに試験の結果に自信が無く、旧丸ビルの本社での結果発表を見に行くのをためらったが、結局小生が行くこととなり、惨めな思いをしたこともあった。
でも、その結果は分かれ道、その後の彼の人生は華やかに開かれていった。勿論その陰には、彼の人の何十倍もの努力の積み重ねがあったことを認識しなければならない。
彼が努力の積み重ねで開花していったのは間違いないが、その根っこには、やはり早稲田大学グリークラブがあったといえる。そこで知り合った友人たちとの関わりが大きな起点となったことは確かである。特筆すべきはグリーの同期で親友の志賀信であり、もう一人の同期の北代博である。
志賀は彼にグリー入部を促し、音楽のイロハを教え、その後クラシック音楽界に進んだ岡村を、文化放送、日本フィルハーモニー交響楽団に推薦した。
オペラ界という特殊な世界で名を成した岡村を一般社会にまでその名を知らしめたのは、当時日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)で編成局長を務めていた北代が、ヨーロッパ帰りの岡村を事もあろうに深夜番組の「ミッドナイトショー」の司会者として出演させたことだった。これによって岡村は所謂普通の人に知られるようになった。このマスメディアを掴むことが世間への知名度を高めることにどれほど大きく作用したことか計り知れない。岡村にとって、一般社会に知名度を得ることは正に鬼に金棒であった。

昭和29年卒の同期会で岡村さんの誕生日を祝う

岡村の音楽界、オペラ界での評価は人夫々多様であろう。しかし僕は知っている。彼はやはり、かの業界にあっても巨星であったといえる確証がある。2011年に再リリースされたイシュトヴァン・ケルテス/イスラエルフィルハーモニー管弦楽団によるハイドン「ネルソン・ミサ」のCDを鑑賞してみればわかる。
岡村はケルテスに多くを見出されて世に出た、と言っても過言ではないが、このケルテスと共演したミサ曲を鑑賞すれば納得中の納得を得ることは間違い無いであろう。そして岡村はケルテスの水難事故死の現場にも居合わせている。これも彼の運命か?
18年5月26日、岡村はライフワークであったシューベルトの「冬の旅」公演を浜離宮朝日ホールで行った。演奏途中の「郵便馬車」が終わったところで休憩をとったが、彼はその休憩から再びステージに戻って来ることはなかった。これが彼の最後のステージ演奏となった。