「はる友」通信

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「遙かな友に」誕生70周年にあたって、皆さまからの寄稿やメッセージ、ワセグリOB会からのお知らせなどを掲載します。

◇早速、あるOB(匿名希望)から録音体験動画の投稿がありました。

◇私たち夫婦がみた 夏合宿での磯部さん

津田 照通(S22卒)
この歌の生まれた日時、生れた場所は皆さんご存じの通りですが、どうして生まれたか、その真実を知る人は少ないでしょう。
道志川の流れる青根の夫婦園は、早稲グリと合唱で交流のあった家政学院の関戸和子さんの実家で、内田裕和君の肝入りで行われた初めての合宿であり、偶々「はる友」が誕生したことで早稲グリの歴史を飾る輝かしい行事となりました。

「遙かな友に」が誕生した1951年の夏合宿の地に到着したメンバー
「遙かな友に」が誕生した夏合宿の地に到着したメンバーの前列の紅一点が筆者の夫人

当時磯部さんが主宰していた女声合唱団「もくせい会」のメンバーだった私の婚約者も、この合宿に呼ばれ、炊事等で協力しました。
磯部さんは私達の結婚の媒酌人となる事を承諾していました。既に社会人だった私もこの合宿に参加し、磯部さんは一日遅れて参加されました。
私達三人は夫婦園では唯一の「ビップルーム」と言われた薪置場の二階、六畳の部屋で寝泊りし、寝る時は私を真ん中にして川の字になり、右側が磯部さん、左側が彼女でした。
神経の細かい磯部さんは若い二人が気になってか、バタンバタンと寝返りを打っていたのが思い出されます。そして寝られぬままに書いたのが「はる友」だったのです。
ところで磯部さんの脳裏に浮かんだ“遥かな友”とは果して誰だったのでしょう。若い二人に刺激されて思い出した昔の夢の人だったのか、奥様の和さんだったのか、これを知る人はもう居ません。
何れにしても「はる友」は、若い私たち二人が居たからこそ出来た歌であることに間違いありません。磯部さんもそれを承知していたのでしょう。その話になると、何時もニタッと笑いながら黙って頷いていました。
その合宿の数ヶ月後、結婚式の一週間前、媒酌人を引き受けていた磯部さんから突然電報が舞い込みました。
「ロクマク イカレヌ アワレ」 イソベ・トシ
これは「はる友」の誕生と共に、私の一生で忘れることの出来ない大きなサプライズとなりました。
※文中「磯部さん」の文字が気になる方もあるでしょうが、私たちの時代は「磯部先生」とか「磯部先輩」などの呼び方はしませんでした。当人がその呼び方を好かなかったからです。

 

◇「はる友」の思い出~パートリーダー4人が協力して初演

澤登 典夫 (S27卒)
今や全国、世界の合唱団に愛唱されている「遙かな友に」は早稲田大学グリークラブの合宿中に誕生しました。昭和26(1951)年の夏、神奈川県津久井郡青根村(現在の相模原市緑区)で行われた合宿でのことです。
道志川の川岸にある狩人宿で行われる夏合宿は、米持参の自炊合宿、期間は1週間くらい。それは大変なものでした。狩人宿なので音の出る楽器の類は何ひとつありません(これは当時の早稲田大学の練習場と同様です)。
ですが、当時の指導者である磯部俶さんの熱心な指導のおかげで、メンバー全員が移動ド唱法を身に付けており、純正律の音階で読譜ができました。新入生の練習は大変なもので、上級生が個人指導でコールユーブンゲンを歌わせます。ちなみに私は世界的なバス歌手、岡村喬生さんの手ほどきをしました。この合宿では河原のそこかしこで上級生が下級生の指導を行っていました。
この年の合宿の半ばくらいでしたか。夕方の練習が終わった後で、磯部さんから私を含む4人のパートリーダーに招集がかかりました。磯部さんが泊まっている畳の部屋に集まると、「こんなのができた、歌ってみてくれ」と。軍隊で使用していたB5の野帳(方眼紙)に線を引いた五線紙に書かれた楽譜を中心に置き、4人で放射状の横ばいになってハミングで音を出しました。前述のように楽器の無い場所ですので、楽器代わりに作曲のお手伝いをしたわけです。
この曲について世間では「なかなか寝ない団員たちを静かにさせるための歌を依頼されたのでつくった」と流布されているようですが、それは誤りでしょう。当時30代の磯部さんの頭の中には湧くようにメロディーが溢れていて、この曲も自発的に作曲されたものと思います。
原作はB durでしたが、トップが苦しそうだったので半音下げてA durでおさめました。そしてその夜のうちに磯部さんが作詩され、明くる日の練習時に詩をつけて歌ったのが世界初演です。
磯部さんは出版当初「作詩・作曲:津久井青根」としていました。しかし曲の名声があまりに大きくなったので隠しきれなくなり、「作詩・作曲:磯部 俶」となりました。出版された楽譜は当初A durで、メロディーも歌い出し1音節(「静かな」の〝し〟)だけがユニゾン、2音節(「静かな」の〝ず〟)が3度のハーモニーとなっていました。
しかしのちに、シャープ系よりもフラット系の方が曲想に合うだろうということでB durに戻され、メロディーも皆さんが慣れ親しんでいる「静か」までユニゾンの形が決定版となりました。
この曲は現在、メロディーの優しさやハーモニーの美しさ、詩の平易さから学校の音楽教科書にも載っています。詩は1小節目だけが1、2、3番と異なり、2小節目以降は3番まで共通で歌いやすくなっています。この効果は、多くの海外の合唱団が演奏してくれることにも表れていると思います。磯部さんは言葉よりも日本語で歌われる音楽性の方を大切にし、外国語への翻訳を嫌いました。
磯部さんの作曲される歌の特徴は、メロディーが易しく美しいこと、かつピアノパートと渾然一体となった見事な音楽であることです。これは磯部さんが手本としたシューベルトの歌曲と同じです。余談ですが、磯部さんは憧れたシューベルトにちなみ、息子さんに周平という名前を付けています。
磯部さんは「遙かな友に」のほかにも数々の名曲を作曲されていますので、機会がありましたら接してみてください。
(「うたの雑誌ハンナ」2019年秋号より転載)

 

◇「はる友」の思い出~道志川の渓流から生まれたハーモニー

  大倉 正美(S27卒)

合唱曲の「遙かな友に」は全国の合唱団で愛唱されており、歌碑が相模原市緑区青根の「緑の休暇村センター」にあります。ボニージャックス等の尽力により、地元の方々また全国合唱団の協力等により建設されました。

歌碑には「遙かな友に」の歌詩と四部合唱楽譜が、また早稲田大学グリークラブが1951年にこの地で合宿した際に、指揮者の磯部俶先生(1942年早大文学部卒、1947~61年早大グリークラブ常任指揮者)がこの地で作詞作曲された旨が刻み込まれています。

実際の合宿地は緑の休暇村から少し離れた夫婦園で、現在はキャンプ場になっており、ここには「遙かな友に 発祥の地」という石碑があります。

この夫婦園の道志川沿いの民家を借りて、1949~51年の毎年夏休みに、合宿が行われました。当時私もこの合宿に参加しておりましたので、60余年前の古い話を、以前にも書いたことのある文章を参考にして、その時の状況等を記したいと思います。

当時はまだ食糧事情の悪い時代で、自炊のための全食料品を運搬しての参加でした。たくあんの入った重い樽を新宿駅に置き忘れてきた者がいて、半日以上がかりで取りに行った悲喜劇もありました。

橋本駅から夫婦園へのバスの便が悪く、トラックの荷台に大勢が乗り込み、行ったこともありました。定員以上乗っているので、対向車がくると荷台から顔を出さないように「伏せ」の号令がかかりました。マイカーのない時代でした。

宿舎の庭先から向こうの山道に吊り橋がかかっており、橋から見下ろす道志川には、鮎が銀鱗を光らせ泳いでいました。

道志川での水泳(1949年合宿)

練習日程は朝6時に「総員起こし」の軍隊調で起こされ、体操から始まり、一日の練習は厳しいものがありましたが、息抜きの日もあり、青根中学での中学生との野球試合と合唱演奏会がありました。教職員との懇談会で、校長が「素晴らしい合唱を聴かせていただき感動しましたが、野球に負けたのが残念でなりません」と言われた。野球は苦戦、最終回2死からやっと逆転勝ちしたんだった。

道志川での水泳は毎日で、泳げない者も入浴代わりに水着姿で川に入る。宿舎の風呂はありましたが、小さい五右衛門風呂で、当番が薪を燃やし沸かしました。

食事は、練習時に使用している4人掛け木製椅子が、食卓テーブルに早変わりする。これに食事を並べると丁度目の高さに食事が並び、中腰姿勢で食べました。

就寝前の布団敷きが一騒動でした。これが「遙かな友に」誕生につながりました。部屋と廊下の隅々一杯に布団を敷く。その内に枕の取り合い合戦が始まる。枕の数が人間の数より少ないのだから致し方ないです。それが一大ラグビー戦となり、タックルの猛烈さは凄く、布団の数も足りなくて、寝る場所が確保できず、押入れの中で布団なしで寝た者もいました。枕と布団の取り合い合戦は、布団からのゴミがひどく、喉には最悪の空気になるのも知らず、全員がよくはしゃぎまわり、楽しい一時でした。

磯部先生と筆者(右端)=1990年、半蔵門会館でのクリスマスパーティー

この状況を幹部が知り、磯部さんに「明日の練習に差し支えるので、何とか早く寝かせたい」と相談する。「何か静かな曲でも歌って聞かせたらどうか」との提案に対し「そんな曲を作ってください」と依頼する。磯部さんは間もなくその気になられ、薪小屋で、畳に腹ばいになって、即興的に作詞作曲されたのが、この「遙かな友に」でした。静かに友を想う、やさしい心が主題のようです。この曲が日本のみならず、世界の合唱愛好者に歌われ、親しまれるようになりました。

歌碑の除幕式は1986年7月13日に、ボニーズャックス、稲門グリークラブ、その他各地から集まった合唱団、関係者ら、約700名のもとで行われました。磯部さんの指揮で「遙かな友に」を全員合唱したのは忘れることができません。

このとき「合唱の里」宣言が行われ、以後「やまびこホール(音楽堂)」や宿泊施設が建設され、毎年9月には「遙かな友に道志川合唱祭」が開催されるようになりました。

相模原市道志川の渓流の響きの中から生まれた、この美しいハーモニーの哀愁を帯びた合唱曲を大切にしたいと思います。

 

◇「はる友」の思い出~突然のソロ指名、ホリヤンの粋な計らい

  永井 廣(S50卒)

今回、「はる友」のリモート合唱に参加させていただきましたが、奇しくも「はる友」が生まれた年に、私も生まれていたことを、今回はじめて知りました。

この歌、グリーに入ってから覚え、事あるごとに歌いましたが、ソロは4年生の秋、定演間近まで一度もありませんでした。ところが、思いがけずに機会が訪れたのです。

私の代は学生指揮者がホリヤンこと堀俊輔君であり、最後の定演(1974年)には早大ハイソサエティオーケストラと協演で「ウエストサイド・ストーリー」を歌いました。その定演前の10月に、栃木でハイソとの合同演奏会がありました。

栃木文化会館

合同ステージはありませんでしたが、定演前の顔合わせとしては有意義だったと思います。その日は、昼一番で栃木文化会館に集合し、ステリハが始まりました。グリーのステージで終演となり、最後は「はる友」で終わる流れでしたが、突然堀君から「ソロは永井」と言われたのです。

吃驚でしたが、堀君の温かい心遣いが感じられました。歌唱力はソロが務まる程ではなく、ソロの経験など全くありませんでした。そういう経緯を分かっていた堀君は、卒業前に「粋な計らい」をしてくれたのでしょう。

その瞬間はあまり覚えていませんが、さほど緊張せず、平常心で淡々と歌えたように思います。貴重な経験ながら、「はる友」と久し振りに向き合うことで蘇った思い出でした。歌って、素晴らしいですね。

 

◇「はる友」の思い出~ドイツ語訳取りやめ、日本語で歌い好評博す

  福島 敬(S55卒)

磯部俶先生も帯同された1979年夏の第7回ヨーロッパカンタット。この際「はる友」を世界に拡げよういうことでドイツ語の訳詞を作成して貰い、暗譜。ドイツ語版の配布用の楽譜も用意した。

ところが、現地でドイツ語の訳詞が出鱈目だったことが発覚。急遽、日本語で演奏し、楽譜もローマ字版に差替した。結局、これが好評を博し、各国の合唱団にも歌われるように…。

ドイツ語?の暗記は無駄だったけど、オリジナルの楽曲が世界に伝播したという、まさしく結果オーライの一幕でありました。

 

◇「はる友」の思い出~ヨーロッパ・カンタットでハモった喜び忘れず

  山田 敏之(S56卒)

1979年の第7回ヨーロッパカンタット。スイス・ルッツェルンで歌を披露し、4000人の合唱仲間から絶賛された。 最初30分の小さな教会でのコンサートだったが、うけた。全体夜の大講堂では福永陽一郎先生の指揮で「最上川舟唄」を4000人の前で歌い、これもうけた。当時日本の合唱曲など聞いたこともないヨーロッパの合唱仲間は、日本の合唱曲のすばらしさに驚愕したと思う。2週間のフェスティバルに泊りでヨーロッパ中、さらに世界中から集まるんだから観客の耳は肥えている。
特別演奏会をルッツェルンの一番大きな?古い?教会で披露できた。受けた! 「見上げてごらん夜の星を」は多分演奏4分ぐらいの曲だと思うが、10分以上拍手鳴りやまなかった。そして迎えた「遙かな友に」。磯部俶先生も同行されていた。福永先生から演奏途中、「次、はる友やるから、磯部先生に指揮をお願いするので呼んできてくれ」と言われたのが当時ベースの一番前端で歌っていた私。磯部先生をお呼びした。
はる友は「An den ferne freunden」とパンフレットに載せ、「Bitte, singen Sie mit uns zuzammen!」と記した。歌っていると、教会の天井からソプラノしかもハーモニーで「oyasumi  yasurakani, tadore yumezi」が聞えてきた。ローマ字でしかも初見、ハーモニー。我々ならロシア語歌っているようなものなのに初見でハモっちゃう。ヨーロッパの合唱のレベルの高さに驚き、ここで日本の曲を初めて紹介できた喜びは忘れられない。

 

◇「はる友」の思い出~ヨーロッパ・カンタットで伴侶と出逢う

  松岡 義行(S57卒)

1982年(昭和57年)卒業&卒団、ベースの松岡義行と申します。

今回のリモート合唱「遙かな友に」を企画していただいた関係者の皆さまには、そのご尽力に大変感謝するものです。大学を出てから高齢者の仲間入りを果たす今日まで、コーラスはおろか歌を歌うことから遠ざかっていました。その間、声は高くなり、ベースの音階を歌うのに四苦八苦してしまいました。

実は「遙かな友に」は、女房との共通の歌でもあるのです。スイスのルシェルンで開催された第7回ヨーロッパ・カンタットに早稲田グリークラブが参加したのが1979年(昭和54年)7月から8月にかけてのことでした。成田空港を発って香港に1泊しスイスのチューリッヒ空港へ。そこから電車でルツェルンへお揃いのスーツで向かいました。

ヨーロッパ・カンタットには世界から2000人を超える参加者がいて、我々は3つのワークショップへと分かれて曲を仕上げていきました。私は、プッチーニのミサ曲のワークショップへ。ラテン語圏からの参加が多かったのですが、その中のスペインからの合唱団の女の子に一目惚れ。ルツェルンでの1週間、できるだけ彼女のいるグループにくっついていたことを思い出します。

1979年のヨーロッパ・カンタットで(後列左から2人目が筆者)

市内の教会で行われたわれわれの単独コンサートで配った冊子には「遙かな友へ」の楽譜がついていて、コンサートの最後には聴衆の皆さんも加わった大合唱になリました。彼女たちのグループも来てくれて、そこで「はる友」を覚え、後日、カペル橋を渡りながら合唱したものです。それから、いろいろと紆余曲折があり、1994年(平成6年)のクリスマスイブに今住んでいるバルセロナ郊外の町の教会で式を挙げることができ、現在に至っています。「はる友」は彼女にとっても大切な思い出の歌であり、時折口ずさんでいるのを聞くことがあります。写真はカペル橋を渡った後に彼女のグループの一人に撮ってもらったものです。

以上、拙い文章で申し訳ありません。音源を送って安堵した勢いで書いてしまいました。

◇「はる友」の思い出~現役時はAdur、Bdur版楽譜に驚き

  阿部 滋(S57卒)

グリークラブもどんどん変わっていきますね。21世紀の合唱の在り方を今度の新型コロナウィルスが教えてくれたのかもしれませんね。立派なものができることを楽しみにしています。

それにしても「遙かな友に」の楽譜がBdurになっていることにびっくりしました。ダウンロードした楽譜の下に「日本音楽著作権協会」の文字が入っているので今はこれが正式なものなのかもしれませんが、少なくとも現役の頃の「遙かな友に」はAdurだったはずで、何時からkeyが半音上がったのかびっくりしました。後半部分で最低音が下のD音だったのがEs音になっているので何か違う楽譜を見ているような妙な気分でした。21世紀になって基準音の高さが今までよりも高音になっているようです。私のように今の音を高いと感じるのは「バロック耳」というのだとあるピアニストの先生から聞きました。音楽も日々進化しているようですね。

 

◇「はる友」の思い出~香川・丸亀へ同期の墓参り

  栗川 治(S57卒)

2008年、墓参りのため香川・丸亀に行った。男声合唱を一緒にやってきた学友、25歳で急逝した都築正靖君の故郷である。前年(2007年)がグリークラブの創立100周年にあたり、その記念誌と過去の演奏のCDが完成したので、それをご遺族に届けようということになったのだ。命日の5月14日に近い連休中に行こうと、同期のメーリングリストで呼びかけがあり、私も同行を望んだ。四国は、大学3年の夏、演奏旅行で訪れて以来だ。その丸亀演奏会で、彼は「塩田小唄」のソロを歌って、故郷に錦を飾ったのだった。

出かける前に、CDを聴き直した。組曲「光る砂漠」。彼が責任者として情熱を傾けた東京六大学演奏会での我が団の録音である。新潟の山村で病床の中から多くの詩を書き綴り、夭折した矢澤宰の遺作に作曲された作品だ。「生きなければいけないけれど、なんだか死んでもいいような」と心がゆらぐ。「ふるさとはただ静かにその懐に私を連れ込んだ。遠い日の記憶が足から蘇った」と歩けた頃を思い出してもいる。その矢澤は21歳で他界し、僕らが歌ったのも同じ年齢だった。音楽に揺さぶられ、熱いものがこみ上げて来る。

eメールで行程表が送られてきた。すぐにパソコンでそのデータを自動点訳して自分用のメモを作り、点字プリンターで打ち出す。5月5日に高松に入り、琴平か屋島を観光し、翌日丸亀入りして墓参りをするとのこと。四国の地理はさっぱりわからないので、「JR全線全駅」という点字本を引っ張り出して下調べをする。土讃線の「おおぼけ」とか、予土線の「はげ」とか、頭が気になり出した身には、ちょっときつい駅名があるが、漢字で書けば問題ないのかもしれないし、とにかく今回そこまでは足は延ばさない。

新潟を出て、東京駅で2人と待ち合わせ、新横浜と名古屋で各1人が、のぞみに乗り込んできた。岡山でマリンライナーに乗り換え、瀬戸大橋を渡る。学生時代は宇高連絡船だったねと懐かしむ。高松で昼食、やはり讃岐うどんを5人とも注文した。琴平に行く時間がなくなり、屋島へ向かうことにする。源平の古戦場、那須与一が扇を矢で射抜いた所だ。屋島山頂に登るバスのアナウンスが、合戦は1185年であったと伝える。平家の公達が命を落としたちょうど800年後の1985年に、企業戦士の都築は過労死したのか。四国84番札所の屋島寺に参詣するお遍路さんたちの鈴の音が木立に響いていた。

夕方、高松に戻り、ホテル近くの居酒屋で互いに近況を語り合う。私は、卒業後すぐ郷里の高校の社会科教師になり、結婚直後に失明したが、妻や3人の子にも恵まれ、困難はあるけれども、多くの支援を受けて仕事も継続できていると報告した。伴走者とランニングを楽しんだり、パソコンも合成音声が出て使えると言うと、皆が驚く。東京で外資系金融会社の管理職をしているK君は、サブプライム問題などで超多忙で、海外出張も多く、英語は鍛えられた、金も入ると言う。私が直截に「年収は2000万円くらい?」と尋ねると、「うん、まあ、そのへんは」と曖昧にぼかす。しかし、その後「こういう世界にいると、たとえ1億円稼いでも、隣の人が1億2000万円だと聴くと、満足できなくなるんだよね。24時間365日、電話やメールに追いまくられて、趣味も何もできない。あとは眠るだけ。何のために働いているのか、わからなくなってしまう」と、しみじみ話す。誰かが「都築の二の舞にならないよう、あとは早期リタイヤしかないね」と突っ込みを入れる。

二次会のカラオケで、私は「千の風になって」を独唱した。新潟出身の新井満が旧友の妻の死に臨んで原詩を翻訳、作曲したものだ。私が顧問をしている高校合唱部の演奏会のために生徒と一緒に練習して、ステージで歌った曲でもある。我が家のすぐ隣の酒蔵で醸造された同名の地酒を持参してもいる。都築は鳥や風になって大きな空を吹き渡っているのだろうか。人はどこから来て、どこへ行くのか。何のために生きているのだろう。

明けて5月6日、高松から丸亀に入る。82歳のお母さんが迎えてくれた。実家近くのお寺に案内される。墓前に大吟醸「千の風」を供える。5人で大学校歌と愛唱歌「遙かな友に」を合唱する。「静かな夜更けにいつもいつも、思い出すのはおまえのこと。おやすみやすらかに、たどれ夢路」。僕らの歌声が霊園の静寂の中に広がる。鳥がさえずっている。さっと風が吹いた。この曲は、遠方で生きている仲間への友情の歌であると同時に、遙かな世界に逝ってしまった友への鎮魂歌でもあったのだと改めて思い至る。

都築よ、君は凝縮した人生を疾風のごとくに駆け抜けた。君は永遠に25歳のままだ。僕らは与えられた命を、世のため、人のため、そして少しは自分の楽しみのためにも、大切に生きる事にするよ。

 

◇「はる友」の思い出~グリークラブアルバムに原典のAdur版を収録

  山脇 卓也(H10卒、 稲グリ新聞2017年2月号より転載)

2016年9月、カワイ出版より「グリークラブアルバムCLASSIC」が出版されました。これは、これまであったグリークラブアルバム3冊の中から選りすぐった33曲を1冊にまとめたものです。今回、「遙かな友に」で、磯部俶先生の原典が収録されました。

この編集に川元啓司先輩(S56卒)よりお声掛けいただき、関わらせていただきました。編集は、まず編者3人により3冊から残す曲を選ぶところから始まり、CLASSICに残す33曲を選びました。今回、編集にあたって目指したのは「極力原典にあたる」ということでした。やはり作品の正しい姿を後世に遺したいという思いです。

中でも最も気になっていたのが、「遙かな友に」でした。この曲は原典が明確であるのに、作曲者の了承なく編曲された楽譜がグリークラブアルバムに掲載されていました。これをやはり原典に戻したいということで諸先輩にお話を伺い、今回はB-dur版を収録させていただきました。

元々世に出たのはA-dur版ではあるのですが、津久井で最初に歌ったのはB-durで、TOPの音が高かったためA-durにした、というお話を澤登典夫先輩(S27卒)よりいただき、また後年磯部先生ご本人がB-durで演奏されたということを須賀敬一先生(S30卒)より伺い、磯部先生の本来の意図はB-durであったかと推察したためです。

本書は全国書店、カワイ出版のホームページなどで購入可能です。手に取っていただければ幸いです。

 

◇鎌倉女子大合唱団も「はる友」歌い継ぐ

京浜女子大学(現鎌倉女子大学)合唱団で磯部俶先生に4年間ご指導いただきました戸倉紀子(1982年卒)です。

写真は練習でまだ怒り沸騰せず穏やかな磯部先生、ピアニストは学園主の松本紀子先生です。今は紀子先生主催の音楽の森で歌っています。先生は97歳、お元気です♪

定期演奏会の最終ステージの後、磯部先生が舞台の端で静かに小さく指が揺れると「遙かな友に」がはじまる。そして今なお現役の定演は「遙かな友に」で幕が下りる。
卒業して30年以上たった頃だろうか、終演後のピロティーで学園主、紀子先生の「歌いたいわね」の一言で、はる友♪が静かに響き渡り、現役もOGも聴衆の皆様も心安らぐ歌声で繋がった。
その帰り際「素晴らしいハーモニーですね。大好きですよ」と初老の紳士が声をかけて下さった。一瞬 磯部先生?かと。

ずっとずうっと歌い続けているはる友♪誕生70年、おめでとうございます。このご縁に感謝し、早稲田大学グリークラブの更なるご発展を心よりお祈り申し上げます。