失明を乗り越え、教壇、ステージへ―。新潟県立新潟西高校教諭の栗川治さん(S57卒)は視力を失っても教員生活を続け、障害福祉活動にも積極的に取り組んでいる。10年前から合唱も再開して、ワセグリや地元合唱団で歌っている。
――27歳で失明して盲学校に転勤した後、普通高校での勤務を希望しました。
「子どものころ、父が目の病気で働けなくなり、弟も視力が低下していくなかで、私は『障害者になりたくない、自分は関係ない』と思い続け、父を嫌悪さえしていました。でも私も視力が衰え、妻に求婚する際、目の病気と子供にも遺伝する恐れがあることを思い切って打ち明けました。妻は『そうなったら、その時にどうするか考えましょう』と言ってくれ、2人は大きな峠を越えました」
「失明後、88年に新潟盲学校に転勤しました。盲学校は視覚を失った生徒や教員がいて社会の理解もあり、居心地の良い世界でした。でも一歩外に出れば、障碍者に配慮のない世界があることを思うと、違和感に変わりました。特別な空間でなくても普通に生きていけるようになりたいと、普通高校への転勤希望を出し、93年に実現しました」
「アシスタント教員や生徒の支援も受けながら、倫理を教えています。教科書や教材が変わるたびに点字に直し、パワーポイントを作るなど準備に時間をかけます。部活動ではボランティア部の顧問、合唱部の副顧問をしています」
――障害福祉活動に取り組み、著書「視覚障碍をもって生きる」(明石書店)も出版しました。
「障碍を個人の身心の不全ととらえる『医学モデル』から、活動を阻む障壁こそ障碍の本質とする『社会モデル』に転換する必要があると思います。当事者が声を出さないと世の中は変わらないと思い、障害を持つ教職員の会やバリアフリー団体に参加しました」
「2012年に内閣府の委員会の専門委員として、障害者基本計画の策定にかかわり、14年には『障害のある教職員ネットワーク』を結成しました。今は新潟県視覚障害者福祉協会の理事として、市民や企業とも連携しながら福祉活動に取り組んでいます」
――合唱を再開したのは07年のオールワセグリフェスティバルからでした。
「順グリ会に出た勢いで、杉並公会堂のステージに乗りました。以来、地元の団体に点字楽譜を作ってもらい、08年のワセグリ100周年記念演奏会、13年の小林研一郎先生との演奏会、16年の点字図書館コンサートに出演しました」
「地元でも合唱団にいがた、にいがた東響コーラスに参加し、小林先生指揮で第九を歌いました。10年には点字図書館の随筆随想コンクールに入選し、聖心女子大学OGで合唱をされていた皇后さまから声をかけていただいたことも良い思い出です」
「このほか良きパートナーに恵まれ、20年ほど前からランニングを続けています。早朝に1時間走るのが日課で、フルマラソンにも挑戦しました」
――今後の目標は。
「定年まであと3年、教員生活を全うしたいです。道半ばで倒れたり、辞めざるを得なかったりした諸先輩の無念の思いを引き継ぎ、先輩が苦労して拓いた道を広げて次の世代にバトンを渡していきたいです」
「父も40代後半から猛勉強して鍼灸マッサージ師の資格を取りました。父の他界後、父が苦しみながら歩んだ道があって、自分も歩めていると気づきました。父が生きている間に気づいていたら、もっと親孝行できたと思うのですが」
(杉野耕一 S59卒)