【近況・遠境】100年前に渡米した血族、日系3世と感動の対面

2017年9月、サンフランシスコを訪ねて倶楽部グリーの演奏会開催のお願いをした後、シアトルに向かい、祖母方の遠縁にあたる日系三世と感動的な対面をした。100年前に遡る私のファミリーヒストリーにしばしお付き合いいただきたい。
16年、ある出来事から両親の古い戸籍を調べたところ、祖母の兄「ムネオ」が100年前の大正初期に、シアトルに移住した記録が出て来た。祖母から聞いていた話は事実だった。
今の時代、ムネオの消息をインターネットで検索したら、8年前のシアトルの新聞の訃報欄にムネオの娘の死亡記事と遺族の名前が見つかった。さらに遺族名を検索すると、ムネオの孫にあたる「ケリー」が、シアトルの運送機械会社の役員であることがわかった。
思い切ってメールを送ると、先方からすぐ「ムネオの孫だ」との返事が来た。送られてきた十数枚の古い写真の中に祖母がいた。間違いなく、曾祖父が同じ血族だと確かめ合った。
ケリーとメール交換しているうちに、ムネオ一家の足跡がわかってきた。戦前、ムネオは5人の子どもと日本に帰国したが、子どもが小中学校の日本語に馴染めず、再びシアトルに戻った。
日米開戦後、一家は日系人キャンプに収容されて家財を失い、ケリーの父親(ムネオの息子)は米国への忠誠を示すために従軍し、苦労したようだ。日系人差別のせいか、父親は日本のことを語らず、ケリーは祖父ムネオの膝で聞かされた日本のルーツを知らないでいた。
降って湧いた私からの便りに、先方は兄妹、いとこを挙げて大騒ぎ。「シアトルで会いたい」と申し出ると、「大歓迎」との返事が来た。
昨年9月、シアトル空港で、ケリー、妹と感動の対面をした。それから3日間、一族はパーティーや観光などで温かくもてなしてくれた。ムネオからケリーまで3代とも同じ日系人と結婚したから、一人娘も含めて皆、見た目は日本人だ。
ケリーらも日本のルーツを知りたがった。鬼怒川沿いの筑波山寄りの曽祖父の家には伊達政宗の家老につながる家宝があり、「ムネオ(宗雄)の名前も政宗に因むかも」と伝えると、「サムライの血を引く」と大喜びだった。今回のサンフランシスコ演奏旅行では会えなかったが、いずれ来日し、再会できるだろう。

筆者夫妻(前列)とケリー(2列目左)一族

私は51年前、グリー学部を卒業して証券会社に就職。一生の仕事にできるか悩んでいた時、偶然の道案内から知り合ったアメリカンスクールの米老婦人教師から大学院進学のアドバイスを得て、大隈候銅像の傍で勉学。それから半世紀が経ち、今は仕事から離れて片々茫々、富山の片田舎と東京の半々暮らしだ。
振り返れば、米老婦人との偶然の出会いがサンフランシスコ公演やシアトル行きにつながった。人生万事塞翁が馬というよりも、あざなえる縄の如しの愚生でした。

   中嶋勝彦(S42卒)