SNSに写真を投稿すると「〇年前の今日は」というように過去の投稿、写真が表示されたりして不意に思い出の引き出しが開くことがある。
今回の寄稿のお話をいただく前に、昨年12月1日にSNSから「2012年の今日はこんな投稿をしていた」との通知があった。まさしく、私どもの代が定期演奏会を開催した日の投稿であった。これも運命だと思い、この文章を書かせていただいている。
「Song of departure」は12年のステージ構成の中でも、際立って異色のステージ、楽曲だっただろう。作詞作曲は、その楽曲を耳にしたことのない人はいないであろう菅野よう子氏。大変おこがましいお願いではあったが、当日の指揮までしていただいた。演奏をご覧になった方は菅野さんのかわいらしい指揮ぶりを覚えておられることだろう。
この楽曲には初演曲では付き物の紆余曲折があった。当初、同期の練習系では自分たちの代の定演が第60回という節目を迎えることを意識し、今までにないものにしたいと考えていた。特に最終ステージはこれまで合唱曲を作ったことのない、それでいて一般でも知名度の高い作曲家にお願いしたいと考えた。何名かの著名な作曲家にフラれるなか、早稲田大学に在学していた菅野よう子さんにお願いしたらどうかと団内で提案があった。
11年12月にコンタクトをとり、先方からの返信は「演奏会を見てみたい」。菅野さんに11年の定演をご覧いただき、その後、面会して曲を作っていただけることになった。ワセグリの演奏会が面白そうだったから引き受けたとのことで、毎年の定演は重要であると感じた瞬間でもあった。
打ち合わせをするにあたり、問題は多かった。どんな楽曲にするか?曲数は?伴奏は?歌詞は?指揮者は?こちらのざっくりとしたイメージを聞きながら、菅野さんは演奏会で受けたインスピレーションからか、楽曲のイメージを伝えてくれた。曲は誰もが歌えるように無伴奏で、言葉もどこかの言葉に限定しないもの。曲数については1ステージの時間を伝え、そこに収まる長さということになった。
そうして夏合宿前、合宿中に2曲、3曲と楽譜が届いた。歌詞が日本語ではない。歌詞のない楽曲も存在した。ここからが戦いの始まりであった。難解な歌詞、ベース系への容赦のない高音…。正直、おそろしいものが出てきたと感じた。
さらに演奏会まで1カ月を切った頃だっただろうか。まだ終曲のないことに不安を感じ、菅野さんに「あと何曲ありますか?」と質問したところ、「あと2曲!」という答えに、(もう既に7曲もあるのに…と)唖然とした記憶がある。さらに当時、ワセグリが苦手とした手拍子足拍子に、振付も付くのだからおそろしい。
そうした困難を突破し、本番に突き進んだ。この怒涛の流れがあったからこそ、あそこまで熱量の高い演奏ができたのだと思う。そして、あの瞬間の客席からの拍手は一生忘れることはないだろう。
久島知希(H25卒)