早稲グリの美点はたくさんあります。その気になると、音色どころか息の色まで鮮やかに変えてしまうところ。「上手い」より「すごい」と言われたがるところ。俺は「合唱」じゃなくて「音楽」をやってるんだと思っている人が多いところ。そんな、必要とあれば平然と世間的な美の範疇も、合唱界的常識も踏み越えて歌う姿勢は強烈な魅力と個性です。
しかしあの頃は、美しい発声や音楽的基礎訓練、合唱(しか振らない)指揮者を軽視する風も、団の一部にあったようです。早稲グリには常任指揮者がいませんでしたが、その辺の常任以上に「若者を(合唱団を)育てる」という視点で我々に接してくれる福永陽一郎先生が六連と定演を指導してくださっていたおかげで、合唱団の基礎までが揺らぐことはありませんでしたが。
とはいえ、合唱団の技術と運営の今後を考え心配するグリーメンもいました。コンクール重視の高校合唱界で「早稲グリ」「四連」の看板がいつまで団員確保への効果を持つだろうか。健康を害し始めていた福永先生のお世話になれるのはいつまでだろうか。将来、一流の指揮者が呼べたとしても、その要求に応えられるだけの技術を合唱団が維持できるだろうか。また、合唱団の未来に責任を感じないで刺激的な演奏効果ばかり狙うような指揮者に出くわさないとも限らない等々…。
そんな中で、我々の代の課題として見えてきたのは、「発声重視」「アンサンブル能力向上」「コンクール的と揶揄される『欠点なく磨き上げる演奏』を軽視しない練習」「本場ヨーロッパの合唱祭『ヨーロッパ・カンタート』に参加し、楽しみかつ学ぶ機会を持つ」などでした。
そして破綻も成功もあった1年間の集大成としての定演です。福永先生のほかにどんな指揮者をお願いするのが最善か、考えた末に出てきた結論は、畑中良輔先生と関屋晋先生という、見ようによっては愛団精神に反する印象を与えるかもしれない案でした。
畑中先生は慶應ワグネルの支柱的指導者でした。関屋先生は早稲グリを飛び出し、同じ学内で男声合唱団コール・フリューゲルを創立した方でした。さらに言えば、関屋先生は当時としては本当に稀有な、合唱の指導だけで生活できるプロの合唱指揮者でした。全日本コンクール一般の部で素晴らしい結果を出し続け、NHKコンクール高校の部では傘下の合唱団を率いて課題曲の模範演奏を放送しており、小澤征爾が日本でのオーケストラ公演で合唱指揮を任せる唯一の人でもありました。
このお二人にお願いすることへの反発もあるだろうことは容易に想像がつきましたが、同期や福永先生とも相談を重ね、団のためにはこのお二人のような優れた指揮者の指導を仰ぐべきと考え、動きました。結果として、畑中先生には機会をいただけませんでしたが、関屋先生は、大きな驚きと喜びをもって、私たちの申し出を受けてくださいました。
やはり、この招聘には反響も大きく、厳しい御意見をいただいたこともありましたが、関屋先生と同期だった早稲グリOBの方々が練習に見えて、私の手を握り「関屋を呼んでくれてありがとう」と言ってくださったのは、本当に嬉しい経験でした。
関屋先生が選んだ曲は、南弘明作曲「フランスの詩による男声合唱曲集『月下の一群』第2集」。1977年の「第1集」と同じ広島崇徳高校グリークラブの委嘱で、前年に初演されたばかりでした。第1集は既に早稲グリの先輩方が東芝EMIで録音した演奏が市販されており、終曲の「秋の歌」は、その年の全日本合唱コンクールで課題曲になっていました。
当時最新の優れた合唱曲で、関屋先生のお好きなフランスにも縁があることからの選曲だったのでしょうが、第1集をレコーディングした早稲グリの演奏にリスペクトを示す意味もあったと私は考えています。
関屋先生の指揮は2年前の第32回四連合同ステージ「ゆうやけの歌」で経験していた私たちですが、先生の表現したいことが合唱団に伝わり切らないような場面もありました。しかし、根気強く指導しながら練習自体も楽しいものにしようとする先生のあたたかさに触れ、徐々に歯車が噛み合うような雰囲気が生まれました。
定演のステージでは、悲嘆と官能、生と死、若さと老いなどのテーマが混在するこの曲集を、我々自身も楽しみました。また、アンコールは前述の「秋の歌」で、客席も大いに沸きました。右胸の前で独特な指揮をしながら表情豊かに指示される姿が、今も思い浮かびます。きちんと段落を作って次への扉を開けるような関屋先生の前進感も、いくらかは表現できたと思っています。
自分の価値観を押し付けるようなことなく、その合唱団の良さを引き出すといった先生の御指導が体験できたことは、早稲グリの財産になったと考えております。同期をはじめ、当時御理解をいただいた皆様に、改めて感謝申し上げる次第です。
新井康之(S61卒)