「遙かな友に」誕生は7月14日 !?~手書きの五線紙に作曲 歌詞は後から

  山本広士(S55卒)
名曲の誕生に謎は付き物である。1951年(昭和26年)、早稲田大学グリークラブの夏合宿で「遙かな友に」が誕生した日は、長らく「7月12日」とされてきた。「輝く太陽~早稲田大学グリークラブ100年史」に書かれ、誕生の地の神奈川県相模原市緑区青根に建つ記念碑にもそう刻まれている。しかし誕生した日については諸説あった。

昨年、ワセグリOB会は「はる友」誕生70周年を記念して、リモート合唱の動画を制作。私はその実行委員長を務めた。その過程で、当時を知る先輩方から貴重な資料や情報を寄せていただいた。私も過去の文献を読み直し、検証してみた。
しかし私は途中で謎解きを放棄した。「複数の誕生日説を記録として残し、誕生日を謎のままにしておくのも、『はる友』が伝説の名曲となって悪くない気がする」と考えたからだ。動画も従来の誕生日とされる7月12日に公開された。
ただ、頭の中に引っかかるものがあった。これでは7月12日を誕生日として認めたことになってしまう……。先輩方の厚意を無駄にしないためにも、もう一度検証することにした。
長田茂さん(S30卒)から有力な情報を寄せていただいた。誕生日を解明するカギとなったのが、合宿に遅れて参加した楢木潔身さん(S26卒)の記録だった。楢木さんは7月13日に合流し、その日に磯部俶先生(S17卒)が曲を書いたというのだ。
【証言1】
「曲が出来たのは、楢木さんが合宿に参加した日の夕方です。この日は合宿の第1班が帰京した日で、『グリークラブ部報No3』にもある通り、7月13日です。私の手元に残っている写真のネガケースにも『13日上京組を見送る 上の道で7・13』と記録されています。(中略)いちばん最初の『はる友』の楽譜には『道志川畔早大グリークラブ合宿地にて』とあり、日付は7・14になっています」 (長田茂さんの手紙)

長田さんが保有しているネガケース
日付は7・14になっている当時の楽譜

【証言2】
「突然、磯部さんが思い出したように、「さっそくで悪いけど、これに五線を書いてくれないか」と差し出されたのが、B5版よりやや小さめの方眼紙であった。(中略)パートリーダーが集まると、磯部さんは、私が五線を引いた方眼紙を取り出した。よく見ると、そこにはキチンと楽譜が書かれていた。(中略)ハミングで、次はラララで、と何回も歌って(中略)この時はまだ曲名も決まっていなかったし、歌詞もまだ付いていなかった」
(楢木潔身さん寄稿「いそべ男声ニュース」より)

楢木潔身さんの「いそべ男声ニュース」への寄稿

【証言3】
「磯部さんが泊まっている畳の部屋に集まると、『こんなのが出来た。歌ってみてくれ』と、軍隊で使用していたB5の野帳(方眼紙)に線を引いた五線紙に書かれた楽譜を…」
(澤登典夫さん=S27卒「うたの雑誌HANNA2019年秋号」より)
長田さんの記録と部報により、楢木さんが合宿に参加したのは7月13日だったのは間違いない。楢木さんによれば、合宿に参加した13日に方眼紙に五線を引き、そこに磯部さんが曲を書いた。澤登さんの証言とも一致しており、磯部さんが13日に楽譜を書いたことは間違いなさそうだ。
楢木さんの原稿には、13日の夜にパートリーダーがハミングなどで歌った後、夕食に向かったという記述がある。その時はまだ曲名は決まっておらず、歌詞も付いていなかった。このことから、磯部さんが歌詞を書いたのは、13日の夜以降ということになる。
グリークラブ100年史(121ページ)にも、福井忠雄さん(S29卒)が作成した「はる友」の楽譜が掲載されている。その楽譜にも「7.14 1951」の日付が書かれてある。もし13日に歌詞が出来ていたならば、福井さんはこの楽譜に「7・13」と書いたはずである。「7・14」という日付は、磯部さんから手渡された方眼紙の楽譜に書かれてあったか、磯部さんから口頭で伝えられたと考えるのが妥当であろう。
以上により「はる友」の誕生日は7月14日が有力であると考える。ただ、「7月14日」説が出てきたからには、これまでの「7月12日」説の根拠を改めて検証する必要がある。当時のことを知る人は少なくなっているが、真相究明へ新たな資料が出てくることを期待したい。
(「遙かな友に」誕生70周年記念事業実行委員長)