2013年9月22日、サントリーホール。小林研一郎先生の熱量の大きい指揮ぶりに、私は19年前の大阪フェスティバルホールでの姿を投影しながら「水のいのち」を歌っていた。
1994年、私たちの代は小林先生にハンガリーへの演奏旅行に連れて行っていただくことになり、その余勢を駆って東西四連の指揮をお願いすると快諾していただいた。この年はブダペスト国際指揮者コンクール優勝20周年にあたり、民間人では最高位の星付き中十字勲章を受けられた。非常に多忙な中で、演奏旅行では単独演奏会のほか、国立交響楽団、国立合唱団との共演や、スプリングフェスティバルの「第九」へのオンステ、さらに早慶交歓、四連と、大変お世話になった。
そのハンガリーで「川」を演奏したことが、「水のいのち」の選曲につながったのだが、曲折があった。当初、「さすらう若人の歌」をお願いしようとしたが、慶應ワグネルもドイツ語曲を選曲したとの情報があり、却下。そこでハンガリーで「縄文」の中の「行進」を歌うことになっていたことから「縄文」をお願いした。
ところが、先生は演奏時間が長くなることを懸念され、「荻久保和明先生にお願いして短くできないか」とのお話があった。学生指揮者の大屋誠、海外演奏旅行マネジャーの三田剛史、四連マネジャーの有吉健司らが、荻久保先生に手紙を書いて改編をお願いした。三田の記録によると、荻久保先生からは「書いてみるけれど、具体的にどこを削れば良いのか、小林先生から教えて欲しい」との回答だった。そこまで小林先生にして頂くことは難しく、暗礁に乗り上げた。私たちが答えを見つけられない中、先生から「水のいのちはどうでしょう」とのご提案があった。
お話をいただいた時、私はこの曲と先生の情熱的なタクトとの親和性がイメージできなかった。しかし先生の練習で場面を一つずつドラマチックに積み上げていくことによって、姿形を変えながら空や地上を行き来する水を輪廻転生になぞらえた曲の奥行きの深さを感じることができ、回を重ねるごとに違和感が消えていったことを覚えている。
四連で歌い終え、張り詰めた空気が持続する中からポツリポツリと湧いてきた拍手がやがてうねりへと変わっていったことを今でも思い出す。
(吉澤泰 H07卒)