鋭いピアノのアタックが、大和田さくらホールに響き渡った。一瞬の静寂を経て爽やかな春の場面が始まる。今春のOBメンバーズのコンサートで、私は久しぶりに「季節へのまなざし」を、今度は作曲者の荻久保和明先生の指揮で歌う機会に恵まれた。
昭和60年(1985年)の初夏、私たちサブ練習部門は翌年の送別演奏会の選曲に頭を悩ませていた。特にこの年はヨーロッパ演奏旅行を控えていた関係で宗教曲が多く、皆から「ノリとリズムと、同化できて魂をこめて歌えるような曲が歌いたい」と事あるごとに聞かされていた。
そんな状況でいくつかの曲を検討していたある日、学指揮のYが切り出した。「混声なんだけど、荻久保和明先生の『季節へのまなざし』って曲があるんだ。以前八潮高校の演奏を聴いたことがあって、一度この録音を聴いて譜面を見てくれないか」
いい曲だった。和声的にも対位法的にも素晴らしかったし、凝っていないながらも効果的な変拍子。皆が求めるイメージにピッタリだった。トップのパートリーダーSの下宿で行われた練習部門会議で、全会一致で「きせまな男声版」の委嘱が決まった。
早速Yが荻久保先生に電話をかけることになった。
「先生は同じ川越高校の先輩だし、お願いすればきっと男声版を作ってくれると思うんだ」
彼はそう言うが、本当に大丈夫だろうか?
ほどなく受話器が置かれた。奥様が出られて「子供とお風呂に入っちゃったので、また30分後位に電話ください」とのこと。固唾を呑んで見守っていた4人のパトリの表情が一斉に笑顔に変わった。音楽には厳しい先生も、ご家庭では子煩悩なパパだったのだ。再度の電話ではすっかり緊張もほぐれて、無事ご快諾いただくことができた。
初演の行われた昭和61年(1986年)2月21日の調布グリーンホール。Yの指揮で、皆全力で歌ってくれたが、力が入り過ぎたり、音程的に不安定な部分も多く、決して満足のいく演奏とはいえなかった。
しかし再演されることもなく、いつの間にか忘れ去られていく作品も多い中、こうして今日まで歌われ続けてきたのは委嘱初演に関わった者としてこのうえなく嬉しい。昨年、音楽之友社から楽譜も正式出版された。
荻久保先生のタクトが静かに下りて、31年目の「きせまな」の演奏は終わった。先生の口が小さく「ありがとう」と動いた。
(伊藤直久 S62卒)