前田憲男氏を悼む~ワセグリと数多くの共演

前田憲男氏

ジャズピアニストで作・編曲家の前田憲男氏(本名・暢人)が昨年11月25日、肺炎のため死去された。83歳。12月4、5日の両日、青山葬儀所で通夜葬儀が行われて400人余りが別れを惜しみ、ワセグリ関係者数名も参列した。葬儀では「A列車で行こう」の生演奏で見送った。
前田氏とワセグリの長い関係は1974年の定演から始まった。学生指揮者だった堀俊輔さん(S50卒)が2年越しの構想を経て「ウエストサイド・ストーリー」の編曲を依頼、男声合唱とジャズのビッグバンドの共演という空前絶後のステージが実現した。以降、ジャズピアニスト・アレンジャーの第一人者とワセグリという考えられない蜜月関係が生まれることになった。
堀さんは卒業後、東京芸大指揮科で学び、プロ指揮者に成長して稲門グリーを度々指揮したが、89年OB四連、90年稲グリ定演で「ウエストサイド」を再演し、聴衆の度肝を抜いた。
91年、学指揮の田中宏さん(H04卒)は東京六連と定演で編曲・ピアノ・指揮を依頼。前田氏は従来のワセグリになかったシンコペーションの強烈なリズムとエンターテイメントの快感を満喫させた。六連は「前田憲男`sアトランダムシート」、定演は「前田憲男のザッツ・エンターテイメント」で大喝采を浴びた。
田中さんは卒業後、2001年のOB四連で前田氏を招き、「前田憲男vsワセグリ」を企画実現した。鶴岡市議を務めながら音楽活動を続ける田中さんは、以下のメッセージを寄せた。
「親愛なるマエノリ先生へ。大学4年の頃、先生とご一緒したステージを通して、融通無碍な音楽の魔法に取り憑かれました。自分なりに先生の背中を追ってきた28年間。これからもエンターテイメントの志を高く掲げ、音楽で街を元気にしていくことを誓います」

堀俊輔氏が指揮した定演の「ウエストサイド・ストーリー」=1974年

94年の東京六連で「きゅうきょくの黒人霊歌集」を演奏。〝黒人霊歌もマエダ流ではこうなる〟と話題を集めた。このプログラムは09年定演でも再演された。 01年の東京六連では「黒人霊歌でオゥ、イエーイ!」。この頃、前田氏は「ワセグリとのコンサートもなんだかんだと回を重ねてきたせいか、いつの頃からかワセグリOBの一人になった気分でいる」と述べている。
さらに11年の定演で「声で遊ぶオーケストラの名曲たち」の編曲・ピ

1991年現役定演の「前田憲男のザッツ・エンターテイメント」

アノを務めた。「クラシックの名曲に歌詞を付けて合唱する」という型破りの企画で、当時の学指揮、東松寛之さん(H24卒)は歌詞まで前田氏に書かせた。
最後に大阪稲グリの話。06年、前田氏と高校のクラスメイトの故・山路洋平さん(S32卒)が前田氏の半生を描いた著書「紙のピアノ」が、前田氏の作曲でミュージカルになり、重要な場面で大阪稲グリが出演した。アップテンポの合唱に演出の山路さんからがダンスの振り付けを求められ、メンバーは老骨を鞭打って大奮闘、公演は大成功した。葬儀の祭壇には大きな紙ピアノが飾られていた。
筆者は20代の頃、山路さんから紹介されて前田氏と知り合った。その後いろいろ話題を残したが、あの頃、ワセグリとこんなに深い関係になるとは夢にも思わなかった。
徳田浩(S31卒)

前田さんとの44年前の約束

 堀俊輔(S50卒、指揮者)

平成30年12月5日午前、私は青山葬儀所にいた。前田憲男さんに44年前の御礼と、その時の無礼をお詫びするためにーー。
昭和49年11月初旬、学指揮の私は絶体絶命の窮地に立たされていた。定演まで残り1カ月を切ったというのに、前田さんに委嘱した男声版「ウェストサイド・ストーリー」がまだ1ページも出来ていないのだ。イカン、これでは定演に穴があく。そうなれば私はおろか、責任学年である同期の末代までの恥となる。
この企画を発表した時、当時音楽監督であったコバケン(小林研一郎)先生をはじめ、先輩諸氏、現役部員からも猛烈な反対を受けた。
それはそうだろう。純粋に合唱音楽を追求し愛している人から見れば、全くジャンルの違うジャズアレンジャーに委嘱し、共演はこともあろうに、大音響を出しまくるビックバンド(早大ハイソサイエティーオーケストラ)だなんて正気の沙汰ではない。
それでも私はこの企画を強引に進めた。前田さんはピアニスト、アレンジャーとして私の憧れであったし、ジャンルを超えて普遍的な音楽を実際のプレイで示してくれている人だった。そんな彼の音楽に全身でぶつかりたかったのである。
前田憲男は昭和9年、大阪に生まれた。少年の頃は同郷の手塚治虫をめざして漫画を描いていたが、父親に手解きを受けただけのピアノがメキメキと上達する。高校卒業と同時に上京、さらに腕に磨きをかけた。
私が前田憲男の名を知った時は既にスィングジャーナル誌のグラビアを飾り、NHKをはじめ各局の音楽番組に彼の名前が出ないものはないぐらい売れっ子になっていた。
量産はしていたが、クオリティは高かった。シャープス&フラッツやニューハードのような一流バンドのためのアレンジは華やかさがより増した。ピアノを弾けば重厚なブロックコードが響き、フレーズに富んだ鮮やかなアドリブは、私を完全に虜にした。
黛敏郎氏が「前田憲男は天才だ。のみならず、それまで低かった日本のアレンジャーの地位を引き上げた。」と絶賛。もう一人やはりアカデミズムとは無縁の天才、武満徹と並べて発言されていたが、まさしく慧眼である。
さて定演は刻々無情に迫って来る。理性を失い、前田さんのマンションを襲ってしまった。「どうしてもすぐ書いて下さい。でないと、ここに火をつけて僕も死にます」。さすがに前田さんも驚いて「書かないとは言ってない。時間をくれと言ってるんだ!」しばらく押し問答が続いた後、「3日後に日テレのロビーに取りにおいで」「約束、約束ですよ!」
3日後、市ヶ谷の日本テレビでスコアの束を受け取って、一目散に早稲田奉仕園へ走った。苦しい息を吐きながら「みんなぁ、この中に定演が入っているぞ!」と叫んだ時の私の声は、人生で一番明るい声だったのではなかろうか。
定演後のある日、前田さんから手紙が届いた。「あのような演奏会を開くことがどんなに大変なことか、私は良く知っています。その熱意があれば何でも出来ます。これからもこの調子で頑張って下さい」
手紙のほかに、その頃雪村いづみのために書いた歌曲「約束」(藤田敏雄詞)が同封してあった。