【岡村喬生さんの思い出】オペラに愛され、オペラに殉じた

 山本 健二(S31卒)
体育会系のボスのような存在だった。突然、電話の向こうから「歌の上手いのを12名集めろ!」との命令が下る。私のワセグリ1年下は「花の32年」の多士済々、その中に玉田元康君(ボニージャックス・バス)もいた。
当時、岡村さんは東京放送合唱団員(入団テストのピアノ伴奏は昭和30年卒の河合隆一さん)として多忙だった。楽譜を渡され、下稽古を命ぜられた。ポピュラーソングだった。グループは「コール東京」と命名された。やがて土曜の夜、代々木上原、横田、横須賀などの米進駐軍キャンプ廻りが始まった。
マネージャーは三井物産社員の奥野さん。とある駅に集合との連絡が入る。行くと、丸山(現・美輪)明宏、雪村いづみ、江利チエミさんらの誰かがいた。ジャグラ、ストリップと盛り沢山のショーとして入る。
岡村さんは語学の天才、それは通訳をされていたご母堂の遺伝子だ。英語の歌はお手の物、ソロは拍手喝采、後に伊・独・仏・露の言語を駆使する。
一方、通じない英語を歌う我々は学生のバイトとしては破格のお金を頂いた。しかし今思えばどこに消えたかと思うくらいすぐ消えた。岡村さんのお陰で我々後輩は青春時代、ストリッパーと楽屋を同じくする夢のようなひとときを持つことができた。
キャンプ廻りが1年を経たころ、コール東京は第1回演奏会を虎ノ門ホールで行った。司会は黒柳徹子さん。岡村さんと互いの母親が親しかったことから2人は幼友達だったらしい。彼女の番組「徹子の部屋」にも何回か出演している。

ライフワークだったシューベルト「冬の旅」公演(2014年)

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またも突然、岡村さんがローマ・サンタチェチーリア音楽院に留学するという。政府給費留学生試験に合格したのだ。並いる音大出身者の中で唯一人の早稲田大学出身者は語学と声量の豊かさで群を抜いていたのだ。
音楽院では片手で喜びと悲しみを表現しろと言われたという。オペラ歌手は単なる声楽家ではない、舞台俳優でもあるのだ。かくして岡村さんは根っからのオペラの人となっていく。後年、「あわて床屋」の終節〝しかたなくなく穴へと逃げる〟では、グランドピアノの後ろの陰に隠れるようにして歌い終えていた。
1960年、トゥールーズ国際声楽コンクールを制覇した岡村さんはヨーロッパの歌劇場第一バスとして名声を博していく。帰国の都度、私の車は「土、日」岡村専用車となり、私はお抱え運転手となる。ホテルと会場の行き帰りにヨーロッパでの体験を語る。
イスラエルの海岸で、一緒に泳ぎ出した世界的指揮者ケルテスが引き潮に飲み込まれた。岡村さんはひたすら浅瀬に向かって手足をバタつかせ、九死に一生を得た話は生々しかった。これらの話は、後に「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」など多数の著書の中に書かれていく。

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岡村さんの名声が上がっていた頃、稲門グリークラブは存亡の危機にあった。1970年、71年、73年、74年と活動が止まった。私は岡村さんに相談した。ショスタコーヴィチの「バービィ・ヤール」をやれという。結果は大成功、朝日新聞で激賞された。これらは頴原信二郎君(S42卒)編纂の稲門グリークラブ50年史「輝く太陽」106~7ページにある。稲グリは蘇った。岡村さんは稲グリの中興の祖といえよう。
その頃、私は中山悌一先生(二期会理事長)のもとへ「冬の旅」のレッスンに通っていた。ある時、岡村さんの「冬の旅」のテープを持参し、それを聞いた悌一先生は会談を希望した。
岡村さんが一時帰国したとき、千駄ケ谷の小料理屋で2人は日本のオペラの将来について熱く語り合った。〝日本でオペラを教えるより、優れた人材をヨーロッパのオペラ劇場にブチ込めばいいのです〟との発言は強烈だった。
悌一先生は岡村さんが永住帰国したとき、二期会で自分の片腕になることを望まれた。しかし実現しなかった。スーパー歌手に対する理事会の拒絶反応があったのだ。こうした事例はまだある。ある音大のトップが岡村さんを教授として招聘すべく教授会に諮ったところ、全員が反対した。当時の日本の声楽界はそれほどまでに岡村さんの実力にビビッていたのだった。

稲門グリークラブ定期演奏会の打ち上げで岡村さんと筆者(1994年)

帰国した岡村さんは57回に及ぶ「冬の旅」の連続リサイタル、TVや映画への出演、平均週1回のリサイタル(全国各地)、執筆など多忙を極めた。その間、在野の意を含む「野声会」、さらにオペラを大衆のものとすべく「みんなのオペラ」を立ち上げた。
そして歌劇「マダムバタフライ」の中で、チョンマゲの僧侶が現れたり、仏前で「イザナキイザナミ」を唱えたりなどの誤った演出を是正。2011年、私財を投じて「みんなのオペラ歌劇団」を引き連れ、プッチーニフェスティバルで岡村解釈による「マダムバタフライ」を演出した。
日本の文化では有り得ないイタリアオペラの演出に対し、正々堂々と是正を求めたのだった。しかしプッチーニの孫娘シモネッタさんは、ダンテの神曲に間違いがあったとしても訂正するだろうかと言って拒否した。岡村さんはオペラ普及の夢を捨てず、長期間大道具の処分はしなかった。

岡村さんら昭和29年卒同期夫妻と筆者(2007年)

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岡村さんの現役への遺伝子について追記する。91年、ワセグリの夏合宿。声楽家を志す美声のバリトンがいた。岡村先輩を紹介してほしいと言う。彼の声は岡村発声メソッドにより磨きがかかった。現在、現役ヴォイストレーナーの和田英樹君(H04卒)である。
結びにあたり、浮かんできた言葉がある。「Gift」である。「贈り物」と(生まれ持った)「才能」と辞書にある。人はそれぞれ何らかの才能を持って生まれ、それは社会への贈り物でもあるとの意味を包含しているらしい。その具現事象が岡村先輩だった。
長年にわたり、幸運にも親しくその謦咳に触れた感謝の念は、やがて再会する西方浄土で言上に及びたいと思っている。

昭和29年卒同期ら夫妻と九州旅行(2007年)