【稲グリ新聞事始】<1> 東京転居後 歌に没頭 創刊号は手書き1枚紙

 新年のオールワセグリ会で、小生が制作を担当していた稲グリ新聞が200号を突破ということで表彰された。事前に何も知らされていない、いわゆるサプライズイベント。うれしく拝受して帰宅。かみさんにこれこれしかじかと言ったら、
「ふ~ん、それで副賞は?」
「いや、そ、そんなものはないよ」
「あっ、そう」
で、おしまいであった。世間の風は冷たい。
 編集局から、稲グリ新聞の歴史を連載せよ、との要請があった。筆力は及ばずながら、稲グリ新聞の創刊号からのファイルや「輝く太陽~稲グリ50年史」をよすがに書くこととする。
 事の起こりは、昭和54年(1979年)、小生が神戸からの転地・転職で東京に来て、翌年に稲門グリークラブの存在を知り、仲間に加えてもらった。第2回OB四連(京都)や、その年の稲グリ定演で野坂昭如さん、岡村喬生さん、鈴木淳さん、ボニージャックスと一緒のステージに乗って歌ったことに有頂天になって、活動にのめり込んでしまった。そんな気分の中、昭和57年9月の稲グリ年次総会後の幹事会で、広報紙の発刊が新幹事長の田中弘文さん(S34卒)から提議され、なぜか小生が手を挙げてしまっていた。
  当時はパソコンはおろか、ワープロも世の中には一般的ではなく、また活字組にするような予算はない。手書きの版下を作って印刷をしてもらうしかないのである。幸い小生が勤めていた会社が出版社で、印刷会社と常に取引のあるところだったので、仕事の流れはすぐにめどが立った。創刊号は総会の後だったので内容はその記事が主体となる。総会資料は既にあり、そのまま原稿になるし、手書きなのでかえって作りやすかった記憶がある。
 手書きでB4用紙の表裏1枚の創刊号の日付は昭和57年(82年)年10月1日。総会出席者44名の記事の中に、奇しくも現幹事長の佐々木豊さん、新編集長の杉野耕一さんの名前が現役3年として記載されていた。
(頴原信二郎 S42卒)
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