山本 健二(S31卒、声楽家)
童謡を語るうえで、福岡県柳川市出身で、私と同郷でもある北原白秋をはずすことはできない。
この道はいつか来た道、
ああ、さうだよ、
お母さまと馬車で行ったよ。
「この道」は大正14年(1925年)、白秋が初めて北海道を旅したときに作った詩だ。「あかしやの花」「時計台」の歌詞から、北海道の道と思われがちだが、そうではない。「いつか来た道」を繰り返し、「ああ さうだよ」と言っている。
白秋は幼い頃、母親と一緒に駕籠に乗って、母の里である熊本の南関に行っていた。その行き来した道に、北海道の風景を織り込み、駕籠を馬車に置き換えているのだ。
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からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。
「からたちの花」は、白秋と親交のあった作曲家の山田耕筰の幼いころの悲しい思い出から生まれた。耕筰が10歳の時、父親が亡くなり、夜学のある印刷工場に働きに出た。職工にぶたれたり、足蹴にされたりすると、敷地のからたちの垣根に逃げて人知れず涙を流した。その時、近くの畑で働いているおばさんが優しくしてくれた。
秋田県にかほ市象潟に、後藤ヨシさんという方がいた。後藤さんは上野の音楽学校の生徒だった時、耕筰から「からたちの花」の歌唱指導を受けた。お孫さんがフレーベル少年合唱団にいた縁で知り、話を聞きに行った。耕筰から「当時は本当に辛く、悲しかった。だから『からたちのそばで泣いたよ』のところはどんなに長く歌ってもいい」と教わったという。
この出会いがきっかけになって、後藤さんは帰郷後あきらめていた歌を再び歌い始めた。私も91年に象潟に招かれ、公会堂で歌わせてもらった。白秋の長男で禅哲学者の北原隆太郎さん、夫人で白秋研究家の東代さんと親交を持つことができたことも、私の財産となっている。
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郷愁、諧謔、寂寥……。白秋の作風は様々な言葉で表現されるが、私はふるさとへの強い愛情と人びとへの慈しみだと思っている。それは「アメフリ」の一節にもよく表れている。
〔3節〕あらあら あの子は ずぶ濡れだ 柳の根かたで 泣いている
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
〔4節〕母さん 僕のを貸しましょか 君 君 この傘 さしたまえ…
〔5節〕僕なら いいんだ 母さんの 大きな 蛇の目に はいってく…
4節と5節の間、白秋は言葉を省略している。それは〝僕が君の傘を借りると君が濡れてしまうでしょ〟というずぶ濡れの子の言葉だ。この曲を歌うたびに、世界中の人びとが「アメフリ」の子どもと同じような心を持ってほしいと思う。