【素晴らしき童謡の世界④】「荒城の月」と司馬遼太郎

「廃藩置県の挽歌」に共鳴、頂いた手紙 歌唱の励みに

山本 健二(S31卒、声楽家)

 最終回は中等唱歌の「荒城の月」を取り上げたい。平成元年(1989年)、書店で司馬遼太郎さんの著書「『明治』という国家」(日本放送出版協会)の巻頭グラビアに、大分・竹田の岡城跡があるのを見て驚いた。そこは昭和25年(50年)の秋、高校3年の私が初めて独唱したところだった。
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滝廉太郎記念西部高校独唱コンクール(現全日本高校声楽コンクール)で、私は「荒城の月」がどうしてもうまく歌えなくて、トスティのセレナーデを歌って2位だった。この時から「荒城の月」は私の歌唱の仰ぎ見る歌曲となり、それから39年が過ぎていた。
この本との出会いは天恵だった。司馬さんは「廃藩置県ー第二の革命」という論考を載せていた。
明治4年(1871年)の廃藩置県によって、当時家族を含めると190万人の士族階級が一夜にして職を失い崩壊した。時の明治政府は士族の心の拠りどころであり、象徴でもある全国270余藩の城を次々と取り壊していった。
司馬先生は「荒城の月」は作詞者の土井晩翠が会津若松の鶴ケ城、作曲した滝廉太郎は豊後竹田の古城をイメージしたと指摘して、こう結んでいる。
「この詩人と音楽家の二人の想念にあらわれた〝荒城〟は、いずれも、明治四年の廃藩置県のあと数年のあいだにこわされた城どもであります。(中略)旧藩時代への挽歌、悼歌、哀傷歌、もしくは廃藩置県前後の鎮魂の歌とみていいのかもしれません」
声楽界において、誰一人として思い至らざる深い洞察だった。私は長い間、荒れ果てた城へのノスタルジアとして歌っていたが、ノスタルジアだけでは4節を歌いきることは至難のことで、第3節を外していた。しかし、日本が近代国家として生まれ変わろうとするときに礎となった人々への鎮魂の祈りとして歌ったとき、「あゝ 荒城の夜半の月」まで4節歌いきれた。
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司馬先生への感謝の気持ちをお伝えしたいと思い、ワセグリの1年先輩の河合隆一さんに話したところ、母上の親友、小西菊枝さんが司馬先生のみどり夫人と親しいことを知った。私の手紙とカセットテープを届けてもらい、お返事のお手紙をいただいた。それには「端正で、清らか、情趣のある御歌は、そのまま日本の明治やアメリカのニューイングランドのピューリタニズムを想い出させるものでした」と書かれていて、いたく感激した。

司馬さんからもらった手紙

その後も、新しいCDを出すたびにお送りすると、お葉書をいただき、私の歌唱の支えとなった。「荒城の月」は私のリサイタルの最終ステージの定番の曲となり、稽古も重ねてきた。
昨年10月、69年仰ぎ見た「荒城の月」の3度目の録音をした。1900年に生まれたこの曲は永遠の名曲として歌い継がれていくことだろう。  =おわり