【あの時あの歌】2014年定演 デーモン閣下委嘱初演~なりふり構わず やんちゃを貫く

「契約を白紙と致します」。そんな知らせが届いたのは、夏合宿が明けて幾日か経ってからだった。周りの学生は早稲田祭の準備のためにどこか浮かれた空気が漂う中、学生会館の、部室から離れたフロアに、重々しい雰囲気を漂わせた冴えない男達が今後の対応を考えていた。

ミラーボール、パイプオルガンを使ったステージ

第62回定演のチラシ

当時は核となる人物がそのパートを率いて数で成立させるような、ある意味乱暴な演奏が目立っていた。純粋に合唱を、音楽を楽しめる団体に立ち戻ろう。そんな気持ちで1年間のステージ構成を考えていた。しかし定期演奏会だけは、4年間の集大成となる演奏会だけは、エゴにまみれたステージ構成となった。

「やんちゃ」ができるのはワセグリがワセグリであるからこそ。きっと何とかなる、周囲の文句を黙殺できるだけの力を付けよう。サブ練習系として次年の打ち合わせをしているときに、そんな話をしていた。実際、紆余曲折はあったものの、それなりに歌い込みができる団体になったと、満足感と手応えが4年の夏合宿までにあった。ただ一点、第4ステージが確かなものになっていないことだけが気がかりではあった。
楽譜もない、バンドが合唱曲? 指揮者も伴奏者も決められるほどステージがまとまっていない。最悪を想定して動くべきではあろうが、エゴを捨てるのは難しい。結局、「待ち」の姿勢でいるために時間が経ち、冒頭の連絡をもらうに至った。
なりふり構わず、使えるコネは使おう。そんな天の声は、当時渉外担当のO田君。某日本放送局からの依頼の窓口をしていた。ここでお気づきかもしれないが、デーモン閣下が相撲好きということから、その線で攻めてみようという安直な考えだった。
効果てきめん、そこから数週とかからず楽譜が出揃った(定演当日、大相撲秋場所千秋楽の中、「千秋楽」という曲を歌うことになったのはイイ思い出話)。
窮地は脱したと、胸を撫で下ろしたのも束の間、先にも述べたように指揮者も伴奏者もいない。当然、曲も組曲ではないため、ただ歌うだけではつまらない。問題は山積みだった。ならばいっそ、自分たちで好き勝手にやってしまおう。そこから先は最早、O田君の独壇場であった。台本付きで音声テープを頂戴し、東京芸術劇場にミラーボールが煌めき、挙げ句は滅多に御目にかかれない芸劇のパイプオルガンまで持ち出したのだった。
定演が成立したのは、ひとえに陰の立役者がいたためである。この場をお借りして言わせていただきます、ありがとう、太田裕也君!
生憎、演奏会当日は全日本合唱コンクールと日程が重なったため、ご来場頂けなかった方も多かったそうで、非常に勿体ない演奏会だったと、個人的には思っている。
しかし、今となっては当時の熱量を到底感じることがなく、どの団体に所属しても物足りなさを感じてしまう、そんな憧憬の演奏会として心に残っている。
中川暁登(H27卒)