【ワセグリ人】三浦光紀さん(S43卒)~伝説のレーベル「ベルウッド」を創立

音楽プロデューサーの三浦光紀さん(S43卒)は、1972年に日本のフォーク、ロックの黎明期を支えた伝説のレコードレーベル「ベルウッド」を創立するなど、多くのミュージシャンや作品を生み出してきました。デジタル時代に入った今も、新たな挑戦を続けています。

みうら・こうき 1944年山形県生まれ。68年キングレコード入社、72年にベルウッドレコード創立。74年に退社後、ニューモーニングレーベル、ジャパンレコード(現徳間ジャパン)、2018年ベルウッドグループ創立。12年に「三浦光紀の仕事」(CD4枚組)

ーーグリークラブではトップテノールのパートリーダーで活躍されました。
両親が教師(母は音楽、父は美術)だったこともあり、私も故郷(酒田市)で教師になろうと思って、早大教育学部社会科学科に入学しました。他の大学や学部は受験していません。高校時代はいつも「喧嘩っ早くて、協調性が全くない」と言われていたので、教師になるなら自分の欠点を治そうと思い、まず協調性を身につけるためにグリークラブに入りました。
入部当時、自分の実力ではレギュラーは無理だと思いましたが、それまでは何をやっても中途半端だったので、グリーだけはレギュラーになれなくても最後まで続けることが目標でした。幸い、グリーの先輩や同期の仲間がいい人ばかりで、練習は大好きでした。
私のこの奇妙な選択が後の人生に大きく影響し、自分が音楽中心の人生を歩むことになるとは、夢にも思いませんでした。
ーー昨年11月にベルウッドレコード創立50周年コンサートが行われました。
キングレコードに入社して、3年目に初めて制作したシングル盤「出発の歌」が大ヒットした幸運もあって、会社が私のためにベルウッドレコードを作ってくれました。当時の日本のレコード業界は欧米よりあらゆる点で10年は遅れていて、特にサウンドのクオリティーは酷いものでした。

ベルウッド創立の頃(右から大瀧詠一、三浦さん、一人置いて、細野晴臣)

私はサウンドやデザインだけでなく、会社のシステムも世界レベルまで引き上げるため、「レコード芸術の追求」と「アーティスト至上主義」をモットーに5年間で50枚のオリジナルアルバムを作りました。
そのレーベルが50年間支持され、世界的なアナログ盤ブームの再燃もあり、雲の上の存在だったビートルズの ジョン・レノンやポール・マッカートニーもベルウッドレコードのコレクターだといわれる程の「伝説」のレーベルになるとは、創立者の私が一番驚いてます。
小室等、はっぴいえんど(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)、矢野顕子、喜納昌吉など多くのアーティストを発掘できたのは大きな喜びです。74年に退社後も、スペースシャワーをはじめレコード会社3社など9社の設立に関わりました。

昨年11月に開催されたベルウッドレコード創立50周年記念コンサート(中野サンプラザ)

ーー70〜80年代に日本の音楽界を席巻した「ニューミュージック」という言葉は三浦さんの造語といわれています。
ベルウッドをスタートさせた当時、日本には既にフォークやロックはあったのですが、私が関わったアーティストの音楽は、それまでのものとは全然違うものだったので「ニューミュージック」と名付けました。

しかし、ニューミュージックを日本の音楽の主流にしたのは私ではなく、グリークラブの後輩たちでした。ソニーミュージックの前田仁さん(S44卒)は吉田拓郎、フリーのプロデューサーの牧村憲一さん(S44卒)は竹内まりや、大貫妙子、そして高垣健さん(S46卒)はサザンオールスターズを大ヒットさせ、日本の音楽シーンに変革を起こしたのです。学生時代、私と一緒に歌った後輩たちが日本の音楽を変えたと言っても過言ではありません。
ーーデジタル時代の新事業に挑戦しています。
Web3は分散型インターネットのことで、「第3のネット革命」であり「第3のエンタメコンテンツ革命」でもあります。ドイツの美術家、ヨーゼフ・ボイスは「全ての人は芸術家である」と言っていますが、Web3時代はそれが現実になるのです。
そこで、私は複製が出来ないデジタル資産「NFT(非代替性トークン)」を活用して、日本のアナログ盤やアニメ、ゲームなど日本が世界に誇るサブカルチャーコンテンツを世界に販売する会社「ベルウッド ジョイント」を立ち上げることにしました。
「人間は新しい事をやる時が一番若い」とか「異質なものと出会った時、人は進化する」と言われていますが、老後に脳を進化させることで、若くありたいとの思いもあり、敢えて未知の世界に挑戦することにしました。
構成・杉野耕一(S59卒)