【岡村喬生さんの思い出】岡村さんと私とロシア語

 伊東一郎(S47卒)

岡村喬生さんが1月6日に亡くなった。享年89歳であった。岡村さんは早稲田大学グリークラブの大先輩であるだけでなく、ロシア語の歌を仲立ちに半世紀近くお付き合いさせていただくことになった。稲門グリークラブでロシア民謡を歌う時はしばしば岡村さんを独唱者に迎え、「ステンカ・ラージン」「十二人の盗賊」などのロシア語指導をさせていただいたが、グリー以外でもロシア語を介したお付き合いがあった。
それは1970年代に岡村さんのためにいくつかのロシア語の歌詞を訳したことから始まる。最初はショスタコーヴィチの「ステンカ・ラージンの処刑」、次が稲門グリーと岡村さんが共演した同じショスタコーヴィチの「バービイ・ヤール」、その次が小澤征爾が振った二期会オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」である。
最初に私が岡村さんのために訳詩を作ったのは偶然だった。東京六大学混声合唱連盟の第七回定期演奏会の合同演奏曲にショスタコーヴィチの声楽交響詩「ステンカ・ラージンの処刑」が選ばれたが、担当のマネージャーが訳詩があると思い込んでいて、間際になって実は訳詩がないのに気がつき、あわてて私に訳詩を依頼してきたのである。
この曲はバス独唱と混声合唱とオーケストラのための曲で、指揮は福村芳一、オケは新星交響楽団で、75年6月20日、日比谷公会堂で上演された。当時、私は文学研究科の博士課程2年。私は一音符一音の原則で訳詩を作ろうとして四苦八苦していたが、「一音符一音節にこだわるな。フレーズ全体で意味とイントネーションが伝わるようにすれば、一音符に幾つシラブルを入れてもかまわない」と岡村さんに言われて目から鱗が落ちた。
「バービイ・ヤール」はショスタコーヴィチの交響曲13番で、エフトゥシェンコの詩によるものだ。その第一楽章が「バービイ・ヤール」と名づけられた詩に作曲され、キエフ郊外で起きたユダヤ人虐殺を扱ったセンセーショナルなものだった。そのためにソ連において画期的だったこの曲は初演時にトラブルがあり、歌詞の書き直しを当局が命じるなどの事件があった。それ故に当時、日本ではショスタコーヴィチの交響曲は、この13番だけが演奏されていなかった。そこで私が訳詩のために駆り出された、というわけである。
この曲はオーケストラとバス独唱、男声合唱のために書かれた曲で、早稲田大学の音楽家が結集すれば日本初演が実現できる、という話が持ち上がった。早稲田大学交響楽団グリークラブ楽友会主催の演奏会は、ワセオケOBの指揮者山岡重信、バスの岡村喬生、稲門グリークラブ、早稲田大学グリークラブ、というメンバーによって実現することになった。練習が始まったが、その途中でショスタコーヴィチが亡くなり、急遽、追悼演奏会として演奏会を開催することになった。
演奏会は75年12月5日と7日、今はなき渋谷公会堂と新宿厚生年金会館大ホールで行われた。その年末の柴田南雄氏の音楽回顧で、「プロに負けない演奏会だった」と評された。ソ連崩壊後、この曲はロシアから独唱者を迎えて普通に演奏されるようになり、早稲田の演奏は日本語による唯一の演奏として、ショスタコーヴィチの日本演奏史に記録されている。
その次に岡村さんのために私が作った訳詩はムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」である。これは二期会の公演として行われ、訳詩は私と二期会の総帥だった中山悌一先生との共訳、指揮は小澤征爾、オケは新日本フィルハーモニー交響楽団だった。
この時は岡村さんに「俺がボリスを歌うんだからな」と訳詩を直接依頼された。「ボリス・ゴドゥノフ」の日本語上演はこれが2回目で、上演された76年6月、東京文化会館の前にはダフ屋が出るほどの盛況だった。上演は大成功だったが、林光の批評が褒めていたのは、岡村さんと合唱だけだった。
私は4年半勤めた大阪の国立民族学博物館を退職して、84年に早稲田の文学部に戻った。その2年後の86年、岡村さんは寺西春雄先生と音楽専門学校「大東音楽アカデミー」を立ち上げ、ロシア語の講座を設けた。これからの声楽家は独、伊、仏は当たり前、ロシア語もできなければ、という岡村さんの意見からである。そこに私は非常勤講師として招かれ、今の妻とそこで知り合った。私にとっては岡村さんは縁結びの神でもあるのだ。
岡村さんはドイツで活躍されている頃からバス歌手にとってのロシア・オペラのレパートリーの重要さを認識されていて、ロシア人に就いてロシア語の勉強をされていた。ドイツ、イタリア語のオペラ・声楽曲のみならず、ロシアのオペラ、歌曲にもレパートリーを広げていた。演奏会ではボリスやラフマニノフを歌い、NHKのFMリサイタルでムソルグスキーの歌曲集「死の歌と踊り」を歌われたこともあった。その際に岡村さんはいつも自分で辞書をひき、歌詞の翻訳を自分で作られていた。稀代の勉強家だった。
最後に岡村さんとお会いしたのは、グリーOB会の会長を長く務められた福井忠雄さんのご葬儀だった。私はそのかなり前に岡村さんに手紙を書いたのだが、ご返事を貰えず気になっていた。それはプッチーニが初演でこけた「蝶々夫人」を改訂し再演した際にタイトル・ロールを歌い、再演成功に導いたウクライナのリヴィウ出身のソプラノ、クルシェルニツカについて調べたものだった。
岡村さんは「長い手紙をありがとう」と車椅子から声を掛けてくださった。晩年の岡村さんのライフワークは「冬の旅」と「蝶々夫人」だったが、私の岡村さんとの思い出はいつもロシア語とともに蘇ってくる。